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第4回 -シンガポール編-
ラッフルズに見るシンガポールへの思い、ヤマザキマザックの情熱
 

文化、教育、経済などあらゆる面でシンガポールの礎を築いたトーマス・スタンフォード・ラッフルズ。その偉業は名門ホテル「ラッフルズ・ホテル」をはじめ、同国の様々な商業施設や公共施設、学校、病院に名付けられていることからも伺い知ることができる。
1781年、母国イギリスから遠く離れたジャマイカ沖の船上で生まれたラッフルズは、貧しい家計を救うため、若干14歳にして西欧とアジアの貿易を担う東インド会社の臨時雇用員となる。その後、人並み外れた勤勉さと探究心で頭角を現し、1811年にはジャワ島の副総督にまで昇進。 1819年にはシンガポールに上陸し、魅力ある自由貿易港をめざし、奔走する日々が続く。
そして1823年、ラッフルズはかねてからの念願だった、シンガポールの文明生活をより上へ押し上げることを目的とした教育機関「シンガポール・インスティチューション」設立に向けて動き出す。この学校は、すべて寄付金による経営を目指していた。ある日、地元名士が東インド会社の官邸に集められた。誰も、その理由は知らなかった。集まった面々を前に、ラッフルズはこう切り出した。「お集まりの紳士諸君。私は現代および将来の方々に最も意義のある計画を実行しようと希望しております――」

ラッフルズは続けた。「私の最大の関心事は、マレー人の方々に自分たちの言語を習得させることです。神にかけて私は祈ります。この学校がこれから何百万人という人々の生活をより良くすることを」。集まった面々はラッフルズの提案を「完璧」と評し、その計画を賞賛した。いよいよ、具体的な寄付金の話となった。
ラッフルズは、この学校を海岸近くに建て、目的にふさわしい立派な建物にしたいことを伝えた。また、そのためには1万5000ドルもの資金が必要であり、そのうち東インド会社が4000ドルを寄付し、自分の懐から2000ドル出すと伝えた。そして、集まった面々に微笑みながら尋ねた。「皆様はいくら払ってくれますか?やはり私と同じく2000ドルですか?」。すると地元名士は大声で叫び、笑いながらこう言った。「自分は貧しい人間です。とてもじゃないが、2000ドルもの大金を出すことは難しい」。これを聞いたラッフルズは表情を変えずこう諭した。「この計画は私たちイギリス人よりマレー人にとって、はるかに価値のあるものです。皆様は私より多く払うべきなのです」。そして続けた。「それでは1000ドルのご寄付で結構です。この寄付がシンガポールの発展につながるのです」。そして、その晩集まった寄付金は1万7500ドルにのぼった。 
こうして設立されたシンガポール・インスティチューションは、現在はラッフルズ・インスティチューションと名前を変え、シンガポール有数の名門中等教育学校として知れ渡っている。 
 

ラッフルズのシンガポールにおける功績は教育面だけには留まらない。奴隷貿易の廃止、賭博の禁止、アヘンの一掃……。ラッフルズの熱意と信念、異文化への理解はシンガポールを急速に発展させた。そして現在、シンガポールはアジアでも有数の金融・経済国家となった。まさにラッフルズは「シンガポールの礎を築いた男」と言えるのだ。
シンガポールをはじめとした東南アジア地域の発展はもちろん、世界最大級の仏教寺院「ボロブドゥールの遺跡」の発掘や、マレー半島に咲く世界最大の花「ラフレシア・アーノルディ」の発見など、ラッフルズが生涯にわたって成し遂げた功績は数多い。一方、私生活では相次いでわが子を失い、シンガポールの建設を巡り東インド会社とも衝突、財政面でも逼迫するなど、晩年のラッフルズは決して恵まれた生活を送ったわけではなかった。 それでも、自身の生涯を振り返りラッフルズはこう語っている。「私は波乱万丈の人生を送ってきた。だが、変化のない生き方になんの面白みがあろう。やるべき仕事のない生涯になんの意味があろう」。1826年7月5日、ラッフルズは母国イギリスで44年間の生涯を閉じた。翌日7月6日はラッフルズ45歳の誕生日であった。
――シンガポールに佇むラッフルズの像。その台座に刻まれた文章はこう結ばれている。「ラッフルズの天才的な直感力によって、シンガポールの運命は大きく変化した。そして、シンガポールは“凡庸な漁村”から、“素晴らしい海港を備えた現代都市”に変貌したのである」 
 

世界とつながった国際色あふれる多文化都市国家シンガポールは、東南アジアの中心に位置することから、この地域への入り口として適しています。高度な技術を持つ労働力、しっかりした環境、トップクラスの銀行システムなどに恵まれているため、多くのグローバル企業が拠点の立地場所として有利さに着目しています。 このシンガポールにはマザックの東南アジア本部Yamazaki Mazak Singapore Pte., Ltd.が立地しており、1992年に竣工した生産工場では、1996年から本格的に高品質なCNC旋盤などの製造が始まり、主力製品の小型CNC旋盤は、東南アジアをはじめヨーロッパ、日本、南米にも出荷しています。 
現在では5回目となる工場拡張に着工し、工場面積を約2倍に拡張、生産能力を現在の月産90台から130台にアップさせることで、FTAにより関税が撤廃されているインドや東南アジア諸国への需要増に対応します。さらに東南アジアのお客様に高度なアプリケーションサポートやトレーニング、そして大型の工作機械のデモ加工および最適な加工ソリューションを提供するために、工作機械を展示するショールームを2.2倍に拡張します。また技術セミナーなどの行えるオーディトリアムの新設やカスタマートレーニング、パーツサポートも充実します。 
今後成長が期待できる東南アジア市場において、お客様に高い生産性を誇る当社の最新の機械を使って、最高の利益を生み出してしていただけるように、バラエティーに富んだ生産方法や加工技術のソリューションを提案していきます。