クロスボーダービジネスサポート

第3回 -イギリス編-

ヘンリー・モーズレイの造形美の追求、ヤマザキマザックの創造

 

「工作機械の父」と呼ばれるヘンリー・モーズレイは1771年、ロンドン郊外ウリッジの貧しい家に生まれた。幼くして父を亡くしたモーズレイは、12歳の時から兵器工場で弾薬運びの仕事をしていた。その後、15歳で鍛造工場にて修行を始める。そこでモーズレイは金属加工に対する並外れた才能を発揮。その評判はすぐさまロンドン中にとどろいたという。
そんなモーズレイの金属加工師としての才能に目をつけたのがジョゼフ・ブラマーだった。「この錠前を実際に作れないか?」。ブラマーは当時、自身が設計した、絶対に破られることのない金庫用錠前の試作品を実際に作ることができる職人を探していたのだ。タンブラーがいくつも付いたその錠前はあまりにも複雑で、ブラマーが雇っている熟練工ですら匙を投げるほどだったという。
しかし、若干18歳だったモーズレイはその試作品を見事完成させる。さらに、錠前だけでなく、商品として生産・販売する際に必要な工具や機械まで設計して作ってしまった。それ以前のどんな錠前よりも優れたこの錠前は、精密で複雑な構造であるため、手仕事では大量生産が不可能と思われていた。ところが、モーズレイはわずか12か月の間に、完全に機械化して生産することに成功したのだった。

 

この時の様子を、ブラマーの親しい友人だった技術者のジョン・ファレイはこう回想している。「作業場には、錠前の部品を作るためのいくつかの奇妙な機械が並んでいた。当時はまだ知られていなかった、完成されたシステマティックな技術がそこにあったのだ。ブラマー氏は彼の錠前が成功したのはこうした機械のおかげであると述べているが、この発明のために要した努力は、錠前の場合よりずっと大きなものだったであろう」
ちなみに、この時モーズレイの機械によって生み出された錠前は以降50年以上も破られることはなく、それを開錠するのに16日間を要したという。
その後もモーズレイは、精密な金属加工を可能にした「工具送り台」や、ボルトとナットの標準化・互換性を実現した「ネジ切り旋盤」、蒸気機関を使った「船舶用エンジン」を発明。今日では当たり前に思われているこうした技術が、イギリスの産業革命と今に続く世界のモノづくりの起爆剤となったのだ。彼一代の間に、多くの「手作業」が独創的な「機械工作」に置き換わった。このような歴史的に例を見ない劇的な発展は、モーズレイが起こした“革命”がなければ起こりえなかったのだ。
モーズレイは1831年に死去。自身でデザインした鋳鉄製の墓に葬られた。その墓標にはこう刻まれているという。「数学的な精度と造形美を生み出した、卓越した存在の技術者だった」 

イギリスで2番目の大都市であるバーミンガムから、わずか30マイル(40 km)の距離に位置するウースターシャー州ウースター市。イギリス最長の川であるセバーン川が街の中心部を流れ、それを見下ろすように12世紀のウースター大聖堂がそびえ立つ、歴史ある土地です。
ここに、サッチャー元首相の誘致によりYamazaki Mazak U.K. Ltd.の工場が竣工されたのは1987年。ヨーロッパにおける日本の工作機械メーカーとしては、素材から製品を一貫して生産する初の大規模CIM工場として設立されました。以来、ヨーロッパ地域の30カ国に及ぶお客様に、工作機械や高度生産システムを供給する最先端工場として機能しています。また、同工場には、お客様に身近でマザックの工作機械を見ていただき、テクノロジーソリューションをご提供するテクノロジーセンタが隣接。単に年間1,400台もの工作機械が製造される場としてだけでなく、“稼動しているショールーム”として、毎年1,000人以上の海外のお客様を魅了しており、ヨーロッパのお客様のニーズをもとに、イギリスで独自に開発及び設計をされた最新鋭工作機械もご覧いただくことができます。
1992年と2007年には、こうした地域に根ざした対外輸出と生産活動が認められ、英国経済の発展に貢献した企業に与えられるイギリスで最も権威のある賞「QUEEN'S AWARD(英国女王賞)」を受賞しました。
これからもヤマザキマザックは、イギリス、ヨーロッパにとどまらず、開発・生産・販売からアフターケアに至る充実のグローバルサポート体制で、世界中の「ものづくり」を支え続けていきます。