日本初にして現存最古の国産機械式計算機が、この「自働算盤 パテント・ヤズ・アリスモメトール」である。1902(明治35)年、発明家・矢頭良一(1978-1908)により発明され、翌1903(明治36)年に特許を得て製造された。

 この計算機は、日本人には馴染み深い算盤と同じ2進法・5進法を採用した独特の機構を持っている。手前の円筒と後方の盤面に数字を入れ、右のハンドルを回転させると盤面に答えが表示される仕組みで、掛け算や割り算の桁送りも可能。また、演算終了時には動作が自動的に停止するなど、当時の海外の計算機よりも優れた性能を実現している。価格は、1台250円、約200台が官庁や企業などに販売された。


手前の円筒と後方の盤面に数字を入力し、右のハンドルを回転させると盤面に答えが表示される仕組みとなっている。
 

 1878(明治11)年、上毛郡(現在の福岡県)に生まれた矢頭。少年雑誌の口絵で目にした空中飛行に興味を持ち、鳥類飛行の観察にも打ち込んだ。実家の経済状況では大学に進学できず、1893(明治26)年に大阪に上京するが、のちに帰郷。父の事業を手伝っていた際、事務作業をもっと効率的に行えないかという考えから「自働算盤」の着想を得、苦労の末「自働算盤」の模型開発に成功。福岡日日新聞(現西日本新聞)の主筆・高橋光威と面会したところ、高評価を受け、森鷗外あての紹介文を書いてもらう。矢頭はようやくエンジン付飛行機の開発という夢実現への第一歩を踏み出す。
 

 軍医部長として小倉に赴任していた鷗外が生活を綴った『小倉日記』の文中には、1901(明治34)年2月22日、降りしきる雪の中、「自働算盤」の模型と自身の研究をまとめた論文『飛学理論』を携えた矢頭が尋ねてきたと記されている。矢頭は何度も鷗外の元を訪れ、飛翔や飛行機に関して熱心に説いた。その情熱と才気に心動かされた鷗外は、東京帝国大学工科大学(現在の東大工学部)で研究ができるように斡旋した。

 上京した矢頭は大学で研究しながら「自働算盤」の特許を取得。東京・小石川の工場で製造・販売を開始した。その高い完成度はたちまち評判を呼び、陸軍からは「乗除において便利であり、統計実務上には欠かせない要具」であると証明書が出されるほどであった。


『小倉日記』にも登場する「自働算盤」は現在、小倉城にも程近い北九州市立文学館に展示されている。
 

 「自働算盤」の開発にあたり辞書が手放せなかった矢頭は、「もっと手早く辞書が引けないか」という考えから、漢字字典『早繰辞書』を発明。これは、部首索引と音読の組み合わせで漢字をすばやく引くことが可能で、検索を容易にするために漢字を構成する線を分類・コード化した点はワープロの原理に酷似している。
 この辞書は1904(明治37)年には実用化され、東京堂出版から発売された。この二つの発明と飛行研究が注目され、当時の新聞に『少壮なる発明家 矢頭良一氏』(中央新聞 1904(明治37)年1月23日付け)と紹介される。特に飛行機の製作に関して「一生の大事業として、専心その研究に従事し」と記されており、矢頭の飛行機研究への並々ならぬ思いが伺える。
 

 飛行機研究の資金づくりのための発明も成功し、明治政府の重鎮・井上馨や、日産コンツェルンの創業者・鮎川義介らの支援も受けられるほど、矢頭の研究は注目されていた。1903(明治36)年12月17日にライト兄弟が有人動力飛行を成功させたが、少しも落胆しなかった。矢頭が目指すものは「タービン・エンジンを搭載した鉄鋼性の飛行機」。発明で得た資金と支援金を元手に、雑司が谷に工場を設立。20人以上の技術者を指揮し、エンジン製作に専念する。

 飛行機製作の夢が実現しようというまさにその時、過労がたたったのか1905(明治38)年11月に肋膜炎を発症。1年の療養のあと、エンジンの開発に再度取り組むが、再び肋膜炎にたおれ、1908(明治41)年10月16日に30歳という若さでこの世を去る。矢頭の死を知った鷗外は、東京での追悼会の発起人となり、後に「天馬行空」の書を手向け、若き研究者の死を悼んだ。


森鷗外が矢頭に送った「天馬行空」の書(複製)。
 

 1924(大正13)年に開発された国内メーカーの計算機の台頭により、矢頭の「自働算盤」は長らく忘れ去られていた。しかし、『小倉日記』内の記述や研究者らの調査による再考・再調査が行われ、没後1世紀を経た2008年には日本機械学会の機械遺産に認定。自働計算機のルーツは矢頭の発明にあることが改めて証明された。空を夢見た若き青年の情熱と挑戦心が、近代機械技術の発展に大いに貢献したことは言うまでもない。
 こんな、次代に継がれる名品を生み出すために―。
工作機械のリーディングカンパニーとして、「100年先のものづくり」を支える、ヤマザキマザックの挑戦は続く。



機械技術史上極めて重要である点が評価され、2008年には機械遺産に認定された。