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第5回 -日本編-
大野弁吉のものづくりへの熱意、ヤマザキマザックの責任
 

その豊かな才能と高い技術から「加賀のダ・ヴィンチ」とも称される幕末の発明家・大野弁吉をご存知だろうか。からくり人形をはじめ、エレキテルや望遠鏡など数々の作品を世に送り出し、その手先の器用さから彫刻師や絵師としても名を馳せた。さらには、当時最先端となる科学知識が満載の一冊「一東視窮録」も著した才人だ。
こんな話が残っている。弁吉はある日、能登の豪商に頼まれ、客室用に千匹の猿を彫った欄間を作った。その豪商は「より優れたものを」と思い、名工と名高い別の細工師にも弁吉に頼んだものと同じ依頼をした。後日、豪商は完成した2つの作品を見比べてこう言った。「弁吉が彫ったものは見劣りがするな…」。ところが、その作品を実際に客室に取り付けてみると、弁吉の作品の方が遥かに生き生きとしている。弁吉は作品が所定の場所に収まったときの効果まで計算し彫っていたのだ。「失礼なことを言ってすまなかった」。豪商は弁吉に詫び、別室用の欄間を改めて注文したという。
そんな弁吉の“ものづくり精神”が垣間見える作品が、医療道具として使われた「エレキテル」だ。弁吉のエレキテルには紡錘型の把手が付いており、上部の車輪を回転し、体内に静電気を流すことで治療に用いたという。それにどれだけの治療効果があったのかは不明だが、同じ江戸時代を生きた発明家・平賀源内のエレキテルより小型なのは、時代の流れに伴う技術進歩か、それとも弁吉の手先の器用さか。少なくとも平賀源内のエレキテルがほぼ見せ物にしか使われなかったことを考えれば、これは長足の進歩と言っていい。こうして生み出された作品に、挑戦心にあふれた弁吉の“ものづくり”に対する熱意を感じることができる――。

実際、弁吉は挑戦心にあふれた才人であったが、一方で天才にありがちな、気まぐれ者でもあった。富や名声にもまったく無関心。気が向かなければ、頼まれても仕事をしない。生涯の大半を自由人として過ごした弁吉の人生には、謎となっている部分も多い。その出生は、享和元年(1801年)、京都生まれと言われており、父も手先の器用な細工師だったそうだ。20歳の頃に長崎へ行き、オランダ人から医学や理化学、天文学、写真術、航海術などの幅広い知識を吸収。当時の最先端であった西洋科学技術を学び、貪欲に吸収したとされている。
その後結婚し、30歳になった頃には妻の故郷である加賀国大野村(現在の金沢市)に移住する。弁吉が生涯腰を落ち着けることになる大野村は、港で物を売り買いしながら航海する北前船が寄港する港町。日本各地を巡る北前船がもたらす商品や情報に触れ、弁吉が大いに刺激を受けていたことは想像に難くない。
そんな弁吉に目を付けたのが、「加賀の百万石」と呼ばれた加賀の御用商人・銭屋五兵衛だった。五兵衛は、天文や測量、航海術などに関する幅広い知識を弁吉から得る一方、豊かとは言いがたい弁吉の生活を陰ながら支えていた。弁吉の頑固な性格を知る五兵衛は「俺はお前に施しをするつもりはない。これは今から頼む仕事の前払い分だ」と諭しながら、弁吉に食料や酒、着物を渡したという。
 

長崎で西洋の科学技術を学び、港町で過ごした弁吉が、高水準の科学知識を持った人物であったことは、前述の著作「一東視窮録(一東は弁吉の号)」からも伺うことができる。これは、医学から機械工学に至るまで多岐に渡る内容で、当時最先端の知見を盛り込んだ百科事典のような一冊だ。このように幅広い分野で博識だった弁吉だが、その先駆性は特に写真術に現れている。「一東視窮録」には銀板写真の製法が記されているが、弁吉はより技術的に進んだ湿板写真の撮影にも成功しているのだ。
ある弁吉の弟子が記した記録によれば、弁吉の撮影は、イギリスでの世界初とされている湿板写真の撮影より2年早い1849年。その数字の正確性について今となっては断言できないが、いずれにせよ弁吉が当時の世界最先端の技術を身に付けていたことは間違いない。時が流れ、2011年には伊豆・下田で弁吉が撮影した湿板写真の原版が発見された。この発見により今後さらに研究が進めば、写真の技術史をくつがえす事実が明らかになる可能性さえあるのだ。
歴史の表舞台に出ることも少なく、ともすれば世渡り下手で器用貧乏のようにも見える弁吉。しかし、あらゆる知識を貪欲に学び、新しいことに挑戦し続けた弁吉は、つまりは好奇心の塊のような人物だったのだ。弁吉は生前こんな言葉を残している。「知と銭と閑の三つのもの備わざれば、究理発明すること能わず――」。弁吉は銭を最小限にし、知と閑(時間)を大切に「ものづくり」に邁進したのだ。一生を市井の発明家として全うした弁吉は1870年、70歳でその生涯を閉じた。
 

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